外科治療の向上と優秀な 外科医 を育成する
一般社団法人京都大学外科交流センター
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京都大学名誉教授 小澤和恵先生 お別れの言葉

平素は京都大学外科交流センターへのご支援に心よりお礼申し上げます。

既にご存知の先生方も多いと存じますが、京都大学外科学講座発展のご尽力された、昭和31年卒 小澤和恵先生が2020年4月13日(月)にご逝去されたとの訃報が届けられました。

皆様から小澤先生への「お別れの言葉」をお受けしております。

小澤先生は、ご生前に多くの先生方を指導され、多くの功績を残されました。
お世話になった先生方は、小澤先生を偲びたいと強く願われていると存じますが、昨今の状況から「偲ぶ会」の早期開催も難しい状況にございます。

当センターでは、小澤先生への「お別れの言葉」を残すことが出来るように、一定の期間コメント欄を開設いたしましたので、ご活用いただければと思います。

改めて、小澤和恵先生のご冥福をお祈り申し上げます。

お別れの言葉

先生方からお預かりいたしました、お別れの言葉を掲載しております。

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コメント (16)
  1. 岡村隆仁/S56 より:

    小澤先生は、常に情熱を持って教室員にご指導されておられましたのが強く印象に残っております。
    私も昭和62年に大学院に進んだ際、常にパッションを持って仕事に当たるようにと指導されました。
    この当時の京都大学旧第二外科学教室は、一種異様な熱気に包まれ、小澤先生の情熱がみんなに伝染しているかのようでした。
    平成2年6月に、初めて京都大学で肝移植を行った際、小澤先生の記者会見を拝見いたしましたが、とても誇らしくてなりませんでした。
    京都大学外科が誇る肝移植手術は、小澤先生の卓越した指導力がなければ、絶対に達成できなかった大事業であったと思います。偉大な先生に最大限の敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

  2. 菅野元喜/S60 より:

    小澤先生
    大変お世話になりました。
    先生に御指導いただいた情熱をもって外科臨床に邁進しております。
    本当に有難う御座いました。

  3. 加賀野井 純一/平成3年卒 より:

     平成3年1月に雲の上の存在である小澤先生にお会いできたのを今でも記憶しています。大学卒業して京大外科に入局するための面接です。教授室に入るとフルネームで氏名を覚えていて下さり、小澤先生の著書の「ミトコンドリアから肝臓外科へ」を1冊手に取り、小澤先生の自筆の署名をしてくださいました。感動でした。今でも大切に持っています。
     小澤先生にお会いできたことが、自分の外科人生の始まりでした。
     小澤先生ありがとうございました。御冥福をお祈りいたします。

  4. 上本伸二/昭和56年 より:

    小澤先生にお会いした1986年の大学院入学から34年間に渡りご指導をいただきました。小澤先生の研究室直属ではなく、小児外科の研究室でしたので、大学院時代は比較的穏やかな研究指導でしたが、1990年からは生体肝移植の臨床現場で厳しいご指導を受けさせていただきました。三重大学へ異動の際には温かいエールをいただき、2006年に京都大学に帰学してからは再び1対1の厳しいご指導を賜っておりました。小澤先生は肝臓ミトコンドリア研究で超一流の研究者ですが、名誉教授になられてからは新たに免疫学の研鑽を積まれた上で、ミトコンドリアのエネルギー代謝から免疫機能を再考する研究領域を立ち上げられ、生涯を研究に打ち込まれた外科学講座の偉大な先人です。ご冥福をお祈り申し上げます。

  5. 山本雄造/昭和57年卒 より:

    小澤先生からは1987年に大学院帰学とともに5研で「脳死ではケトン体比が高いはずだよね」から始まって、直属チームとしての研究テーマを頂き、その後、肝移植に向けた脳死のケトン体比研究で帝京大学救急部、ハノーバー医科大学、ピッツバーグ大学と通常では経験できないようなところへの留学もさせてもらいました。「パッションだよ!」という言葉とともに、優しくも厳しい研究指導をいただきました。ケルン大学への留学のおりには学務との交渉でいろいろ御配慮くださいましたし、先生の国際性を通して多くの指導者や親友を得ることができ、そのお陰で今があると感じています。緑のミトコンドリアの本を書かれた時に厚さ5cm程もある原稿を渡され、その校正を一晩でやってきなさいと言われた時は泣きそうでした。思い起こせばどれも忘れ得ない思い出であり、臨床現場・研究現場での厳しさの側面も小澤先生から教わったように思います。2003年に秋田大学へ移動の際には「啐啄同機」の揮毫を頂戴し、送り出していただきました。今も教授室の壁に掛けています。先生のご期待には何一つ満足に答えられていませんが、暖かく接しながら育てていただけたことに感謝しております。ご冥福をお祈り申し上げます。

  6. 坂井義治/昭和56年卒 より:

    小澤先生の意に反した留学をしたためでしょうか、帰国後は2週間の謹慎?を言われご挨拶ができなかったこと、その後教授室に呼び出され、数時間の”ご指導”をいただいたためか、しばらく先生とは疎遠になっておりました。ところが消化管外科の教授として帰学してからは、何人ものご友人をご紹介頂き、治療後には先生自らのご丁寧な礼状やお電話を頂き、大変恐縮しておりました。ウエスティン都で開催された本庶先生のノーベル賞受賞記念式典後に、ご家族のお迎えの車に乗車される先生にご挨拶させて頂いたのが、先生にお会いした最後でした。不肖の弟子にいつまでも暖かいご配慮を頂き、本当に有り難うございました。先生のご冥福をお祈り致します。

  7. 孝橋 慶一/昭和58年卒 より:

    私の中では常に偉大な巨人であった小澤先生にご冥福をお祈りいたします。
    日本の肝移植の礎を作られた小澤先生の業績の大きさは、計り知れません。
    私が平成2年大学院入学時には既に諸先輩方の努力があって肝移植の土台はでき上っており、後は臨床スタ-トを待つだけでした。 そして最初のスタ-ト開始から当初の期間、術中のケトン体比測定という重要な役割をさせて頂きました。 小澤先生から直接ケトン体比を聞かれたことがあったと記憶しています。 移植手術の黎明期を近くで見られたのは大きな財産となっています。
    小澤先生有難うございました。 安らかにお眠り下さい。

  8. 寺嶋 宏明/昭和61年卒 より:

    私は1986年に入局し、1992年に第2外科大学院に帰学しましたが、小澤先生の教授としてのほぼ最後の大学院生世代であったと思います。先生は我々若手からすると、はるか雲の上の存在でしたが、「Passion」と「Surgical Science」の2つのキーワードを私の頭の中に強く焼き付けていただいた偉大な先生でした。この言葉は潜在意識として、現在に至るまでの私の外科医としての生き方に強い影響を与えてきたことは紛れもない事実です。
    2017年10月21日の楽友会館での「小澤先生の米寿をお祝いする会」の折り、ご自宅まで先生ご夫妻をお迎えに行き、そのタクシーの中で聞かせて頂いた数々のお話しは忘れられません。
    30年前に著された「ミトコンドリアから肝臓外科へ」の名著は、実は現世代の大学院の研究に大いなるヒントを与えてくれています。あらためて小澤先生の偉大さを身に染みて感じています。
    先生の想いは同門の後輩に脈々と受け継がれていると信じています。
    小澤先生、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。

    1. 宇山志朗 昭和57年卒 より:

      肝移植開始のはるか以前、イギリスから輸入したbaboonの肝臓を用いて肝不全患者に対するliver supportを実施しました 主治医はベッドサイドに一晩つきっきりで、患者の意識状態が少し戻ったように見えた時に子供のように喜び、一緒についていた1年目の研修医に「いまちょっと戻りましたね! 反応したね!」とあの丁寧な物言いでしかし情熱的に話しかけました
      研修医はほどなく赴任し、あの先生が教授に就任されたと聞きました

      7年後、大学院生として帰学したのは1989年でした 翌年京大第二外科は初めての生体肝移植を実施し、かつての研修医は再び小澤先生の大きなお仕事にかかわる幸運を得ました
      「院生は1年か1年半でペーパーを仕上げて、ただちに留学しなさい」 というのが小澤先生の絶対命令でした
      大学院生は留学生活が楽しくて浦島太郎になりかけていましたが、1994年でしたか、先生が、ハンブルク郊外の我が家に奥様とともにお越しくださいました
      折しもハンブルク大学に留学していたエジプト人の同僚は、世界のOZAWAが来るって?とはしゃぎ、夢見る眼差しで直にサインをねだっていました

      昨年2019年12月の同門会で、後ろ姿が儚げに見えたのが気になってお声を掛けずにいられませんでした それが最後になりました
      私の頭の中にあった臨床系教授のイメージを木っ端微塵に破壊した小澤先生
      ありがとうございました
      どうか安らかにお休みください

  9. 田中 紘一 昭和 41年卒 より:

    小澤先生がご逝去されましたと上本先生からのお知らせに、いよいよその時が来たのだと沈み込むとともに、強い哀しみが湧いてきました。あらためてご哀悼を申し上げます。
    先生との最初の出会いは、先生が「surgical science」を唱えて当時の第二外科教授就任に端を発します。私にとっては衝撃的な感動でした。さらに着任後は私達に世界を見据えて医学研究と臨床に取り組み新しいことを産み出しなさいと一貫してメッセージを発し続け、自らも先頭に立って歩まれました。先生が教授着任された頃の私は研究生活を終えて再び大学を離れようと思っていました。先生との出会いと歩みでその後の人生を導いていただきました。今でも先生のある日のお姿が目に焼き付いてしばしば思い出されます。それは ICUで、あらゆる手立てにもかかわらず生きる可能性が絶たれた患者のベッドサイドで何時間も何日間も絞りでる尿の一滴一滴に一喜一憂して「助けるぞ、助かってくれ」といい続けながら治療に当たっているお姿です。そこにはsurgical scienceを越えて臨床医としての宿命を貫かれておられました。よく口にされるパッションには二つの意味があって一つは情熱の心です、ひとつは重い荷を背負い歩くん忍耐の心です。私はその中をさ迷い歩きました。不肖の生徒をお許しください。数多のご指導に感謝申し上げますとともに、安らかなご冥福を祈念申し上げます。

  10. 中谷壽男/昭和48年卒 より:

     五研にお世話になる決心をしてお部屋へ御挨拶に行った際、当時講師であられた小澤和惠先生の温和なお姿に安堵したのは40年余り昔の事になってしまいました。研究室での懐かしい思い出の一部を記してみます。
     当時の五研スタッフの仕事は、毎朝病棟から運ばれてくる血液のケトン体の測定や、手術室から運ばれてくる肝臓片からのミトコンドリアの分離とチトクローム測定でありました。自分自身の動物実験で興味あるデータが出ていたある年の12月29日、五研の忘年会が毎年のように先生のご自宅で開かれました。奥様の手料理を皆でいただき、実験の話しで盛り上がった時に先生から追加実験のアドバイスが有り、「是非データをお年玉にくれないか!」!
     また当時、毎土曜日には五研挙げてのliver supportの実験をし、終了すると研究室内で鍋を囲むのですが、そのときにコンブから出汁を取るのが小澤先生の役割でもありました。皆で作った豚小屋からブタが脱走して病院構内での捕り物劇なども大いに叱られました。ある朝の五研の抄読会で、外国で脳死成人の肝臓を小児に移植するには大きすぎて収まらないために、肝臓の一部を切除して移植した論文が紹介されました。「これだ!」と先生が叫ばれたのが、生体肝移植へと突き進む始まりでした。
     京大病院に高次救急医療機関が設けられる事が新聞に載り、救急部助教授であった小澤先生が責任者となられましたが、京大には三次救急医療の経験者は居ませんでした。帝京大学救命救急センターに派遣された私にすぐに判ったことは、当時の京大で救命救急センターの運営が出来るはずが無い、と言うことでした。救急医学の道を選んだ私にとって、AKBRという強力な武器を持たせて頂いたことは、先行する他者との学問的競争を勝ち抜くための大いなる助けとなりました。東京へ来られたときにホテルへ呼び出され、パッションについてのお話しなどの薫陶を受けたことも想い出です。ミトコンドリアのかたまりのような小澤先生でありました。
     長年のご指導に感謝申し上げますとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

  11. 粟根 雅章/昭和60年 より:

    突然の恩師の訃報に接し、心より哀悼の意を捧げます。
    小澤教授は外科入局の時にちょうど第2外科主任教授に就任され、当時としては先進的な肝臓外科を立ち上げるところでした。私たちにとっては臨床医の姿を初めて学ぶ場で、先生の臨床医としてのふるまい、問題に立ち向かう姿勢、ものの考え方、情熱などを一から教えていだたきました。今でも先生が見せてくださった医師像が私の外科医としての原点になっています。
    さらに大学院では肝移植の立ち上げを目の当たりにして、ダイナミックな医療の進歩を感じる機会を得ました。同時に、研究を通じて科学としての医学についても深く学ぶ機会をいただき、視野を大きく広げることができました。医学者としての功績も素晴らしいものであるとともに、私にとって最高の師であったと思っております。
    臨床医、科学者として素晴らしい先生であった小澤先生の弟子のひとりであることに、誇りを感じております。どうもありがとうございました。安らかにお眠りください。

  12. 田中 明/S53卒 より:

    小澤先生ご自宅近く東福寺を訪れて挽歌一首 、
    青き空白雲浮かぶ稲荷山 叱るが如く千の風吹く

  13. 嶌原康行/S48卒 より:

     小澤和惠先生、長い間ご指導を賜りまして有り難うございました。
     思えば昭和48年の研修医時代、昭和53年研究で帰学、五研に入れて頂き過ごした4年間、昭和59年留学からの帰国後すぐに第二外科の教授に着任され平成5年ご退官直前の1月に私が愛媛大学に転任するまでの9年間と、計15年もの間、臨床・研究・教育に直接親しくご指導を頂き心より感謝申し上げます。先生が京大ご退官後滋賀医大の病院長・学長になられてからもよく電話を頂戴し、また全ての公職を退かれてからもことある毎に相談に乗って頂きまして、実に40数年間もの長き間医師としてのみならず人生の師としてご指導を賜り、今日自分があるのは正に先生のおかげでございます。
     なかでも先生が教授に就任される前に第一外科講師として五研を主催されていました研究室時代と、先生が第二外科教授に就任されて肝臓外科を発展させ肝移植へと進まれた時期を共に過ごさせて頂きましたのは、私にとって大きな財産とも言える時期でございました。私は、研究室ではショック・敗血症の肝ミトコンドリアのエネルギー代謝、人工肝臓の実験と臨床に携わりました。何人もの術後肝不全の患者さんの治療に、豚やヒヒの摘出肝臓を用いて昼夜を問わず体外灌流交差透析法にて治療したことは忘れることができません。研究室に入るやいなや、これからの研究は国際的でなければならないとの信念で、早い時期から国際学会での発表や英文での論文作成を指導していただき、フンボルト奨学生としてイッセルハルト教授のドイツ・ケルン大学実験医学研究所に留学をさせていただきました。帰国後、第二外科の病棟勤務となりましたが、先生はそれまで殆ど手が付けられていなかった肝細胞癌の門脈、肝静脈、下大静脈等の大血管の腫瘍栓摘出術など、すさまじい執念で拡大手術に着手され肝臓外科の限界に挑戦されていました。結果、病棟には重症患者が溢れていましたが、先生は何日も患者さんのベットサイドに張り付き、時には肝性昏睡の治療として行われるラクチュロース浣腸も自ら率先して施行されていました。私はそのころ、主治医として何日も帰らずに病棟で過ごしていましたが、そのような先生のお姿を見て臨床外科医のあり方を教えていただいた気が致します。先生の京大教授としての在任期間は決して長くありませんでしたが、しなければいけないと目標にされたことは明確で、全身全霊で臨まれ全て達成されました。そして、拡大肝切除術から肝移植へと進み山岡義生先生、田中紘一先生に引き継がれて大きな発展をみたことはご承知のとおりです。のちに私の同級生から、「君はあの頃よくあんなにしんどい病棟に我慢しておれたなあ」と言われましたが、私は、肝臓外科の拡大手術から移植までチームの一員として参画させていただき、外科医人生でこれほどエキサイティングなことはそう多くはなかったであろうと思っております。
     先生は京都大学教授を退官されたあと一線の臨床外科医は退かれましたが、新たに肝ミトコンドリアと移植免疫の研究に打ち込まれ、お亡くなりになる直前まで研究に情熱を注がれ、まさに超人的なご生涯をおくられました。先生の薫陶を受けられた多くのお弟子さんは、まさに先生との出会いがなければきっと異なった道を進まれたのではないかと思われるほど、多くの方々を育て強い影響をお与えになられたと拝察しています。
     先生がお亡くなりになられた今は、何か大きな支えが無くなったような気が致します。先生、どうか私どもを天国からいつまでもお見守り下さい。
     先生のご逝去を悼み心よりご冥福を祈念致します。

  14. 田辺 元/鹿児島大 S49卒 より:

    小澤和恵先生、ありがとうございました。
    平成元年に1カ月ほど見学研修をさせていただいた鹿児島大学の田辺と申します。当時の京大2外科は小澤教授の熱情に駆られ、山岡義生助教授や田中紘一医局長などが奮闘されていました。研修初日、その先生方に連れられ廊下を歩いていたところ、留学からの帰国報告に来られた教室員○○先生と出会いました。出会いがしら、小澤先生と田中先生が目配せされ「君、明日から△△病院へ行ってくれないか。」とのお告げ。帰国後の臨床・研究に燃えていたであろう○○先生の意気消沈ぶり、かくも京大は過酷なのだと思いました。しかし、その夜の飲み会は私の歓迎会と銘打って実際は○○先生の激励会でした。小澤先生の厳しいながらも温情ある一面を見せていただきました。 
    小澤先生には「酒ばっかり飲んでないで勉強しなさいよ。」と、ことあるごとに言われました。いまだにそのお言葉が耳に残っています。  先生のご冥福をお祈りします。
                            

  15. 岩田辰吾/S59 より:

    小澤先生
    このたびは小澤先生のご逝去の報に接し、ご家族の方に心からお悔やみ申し上げます。
    小澤先生との最初の出会いは医学生の頃、先生が手術部の助教授の頃だったと記憶していますが、お部屋を訪ねて行ったときのことです。先生自らコーヒーを淹れて下さったことに驚きました。さらに外科を志望していると言いますと、「止めておきなさい」との返事にさらに驚かされました。素直に聞いておればもうお出会いはなかったのですが、その時のEpisodeを通して先生のお人柄に魅力を感じたのでしょう。
    Passionを持って移植を始められ強烈な吸引力で移植を継続していくわけですが、これは先生にしか出来なかったことではないでしょうか。
     先生が滋賀医大の学長をされていた頃 留学から帰ってきてお会いすると 学長という本業より実験がしたいと驚きの発言を頂き、私も 金曜日の午後滋賀医大に出かけて行き、先生とともに徹夜で実験をした思い出や、心不全、揺らぎ理論、MRI, 特にCaとミトコンドリアなどについて実験したあとは焼き肉やお断りしてもお家にお招き頂いてお食事を頂いたりで、 お家の方には大変ご迷惑をおかけしました。小澤先生は1978年にノーベル賞を受賞したピーター・デニス・ミッチェルのように引退してからも実験を続けたいとおっしゃっていました。赴任先が京都になると移植免疫についての研究をされておられ、大学に行ってデータを集め解析のお手伝いをさせて頂きました。先生からは驚かされっぱなしでしたが、現在Metabolic SurgeryやSurgical scienceに携わっているのも先生のお陰と心から感謝申し上げます。先生のご冥福をお祈り致します。